やりすぎ介護職の正体は「優しさ」じゃない。優位性の法則という自慰行為

気づきと成長

やりすぎるケアマネ、やりすぎるヘルパー。現場に必ずいる。

「あの人は私じゃないとダメなんです」 そう嬉しそうに語る支援者を、何人も見てきた。

これ、優しさじゃない。

優位性の法則、承認欲求、自己顕示欲。 やりすぎの正体はここにある。

悪い言い方をすれば、自慰行為だ。

自分が気持ちよくなるためにやってる。その時点で「ゴール」は存在しない。自分が支援できなくなる未来も、疲れ果てる未来も、やむを得ず離れる未来も、想像すらしていない。

だから、その後を引き継いだ人間がめちゃくちゃ苦労する。

優位性型と恐怖型は、別の病気だ

やりすぎには、実は2つのタイプがある。同じ「やりすぎ」でも、原因も処方箋も真逆だ。

動機特徴処方箋
優位性型承認欲求・自己顕示「私じゃないと」を嬉しそうに語る。引き継ぎ資料を書かない「その支援、誰のためですか」を突きつける
恐怖型保身・技術不足事故責任への恐れ。線引きの技術を教わっていない「線引きしても守られる」仕組みと事例を渡す

優位性型に「あなたのためを思って」と言っても響かない。むしろ承認欲求を刺激して悪化する。 恐怖型に「あなたの承認欲求が問題です」と言うと、ただ萎縮して支援の質が下がる。

同じ薬を、違う病気に処方しても治らない。

最強の武器を持っているのに、使わない介護職

介護には最強の武器が最初から支給されている。

「制度上できません」 「法律違反になります」

このカードを切れば大抵のことは終わる。なのに、大半の現場で使われない。

理由は3つ。

① 目の前の痛みの方が勝つ

「制度を盾にして嫌われるリスク」と「やりすぎて後で自分が苦しむリスク」を天秤にかけたとき、人間は不確実な未来の損より、確実な今日の痛みを避けようとする。近視眼的な損失回避だ。長期の燃え尽きより、今日のクレームの方が怖い。

② 使うと自分の無力さを認めることになる

「制度上できません」は、裏を返せば「私にはこれ以上何もしてあげられません」の宣言でもある。優位性・承認欲求で動いている人間ほど、これを自分の価値を下げる発言だと感じる。武器はあるのに、鞘から抜くこと自体がプライドと衝突する。

③ 組織が使うことを許していない

事業所側が「なるべく利用者の要望に応えろ」という空気を作っていれば、現場は制度を盾にした瞬間に上司から詰められる。武器を支給されているのに、使うと社内評価が下がる。矛盾した設計の事業所は、普通にある。

雨具は持っている。なのに弱そうに見えるから着ずに、濡れて風邪を引く。装備の問題じゃない。装備を使う判断の問題だ。

「言える人」の3条件

制度という盾を実際に使える人間には、共通する条件が3つある。

  1. 自分の無力さを自認している — プライドが邪魔をしない
  2. 組織のお墨付きがある — 使った瞬間に詰められる矛盾がない
  3. 自分がいなくなる前提で支援している — 引き継ぎ地獄を先に想像できている

特に3つ目が効く。優位性型は「自分がいなくならない前提」で燃え続ける。そうじゃない人間は、最初から自分の支援に終わりがあるという設計図を持っている。だから今の無理な要望に応えることが、未来の別の誰かへの借金になると見えている。

今日のいい顔が、将来誰かが払う利子になる。それが見えているから、今日嫌われることを平気で受け入れられる。

そして、嫌われる相手も選べるようになる。

  • 組織・同僚・後任者からの信頼 → 守る対象
  • 無理難題を言う本人・家族の一時的な不満 → 引き受けるコスト

多くの支援者はここが逆転している。目の前の人に嫌われたくないあまり、見えない未来の同僚や後任者に借金を背負わせる。優先順位が逆だ。目の前の不満は消耗品として扱い、構造を支える人間関係は資産として守る。

シャドウワークのエスカレーション経済学

なぜシャドウワーク(できないことをこっそりやってしまうこと)が危険なのか。

一度やると、それが当たり前になるからだ。

  • 最初の1回は「特別対応」のつもり
  • 相手にとっては「基準値」として記録される
  • 次に基準値を下回ると「サービス低下」と認識される
  • 同じ質を維持するには、毎回ちょっとずつ上乗せしないといけなくなる

一度上げた基準は、下げるコストの方が上げるコストより圧倒的に高い。これを知らずにシャドウワークを続けると、親切のつもりで小さく譲歩し続けて、最終的に譲歩の総量が制度の限界を超えて詰む。

だから自己防衛は、利己的な行為じゃない。支援全体を持続可能にするための、最初のリスクヘッジだ。

行動見た目実際の機能
シャドウワークを断る冷たい基準値の上昇を止める防波堤
制度を盾にする逃げエスカレーションの芽を摘む予防措置
自己防衛を優先する自己中心的支援システム全体のリスクヘッジ

3つの問い

ここまで理屈は並べた。最後は、自分に問いを投げてほしい。

まず、現状の棚卸しから。

「その優しさの何割が相手のためで、何割が自分のためだった?」

0か100かのジャッジじゃない。ただの現状把握だ。今月は7割相手、3割自分だったかもしれない。来月は逆かもしれない。良い悪いを決める必要はない。まず数字にしてみる。

次に、具体的な記憶を掘り起こす。

「結局あなたがやってたその優しさは、本当に優しさだった?」

答えは出さなくていい。あの時のあれは。じゃああの対応は。記憶の中を検索する作業そのものに意味がある。

最後に、踏み込む。

「それは相手への優しさ? それとも、あなたが優しい人でいたいだけ?」

これは劇薬だ。ここで思考が止まって自分を責める人も出てくる。だから、これは締めに置く。理屈を並べ終えたあとの、余韻として。

引き継いだ人が、全部かぶる

やりすぎ支援に共通する構造は一つ。

本人のためのゴールじゃなく、自分がいる前提のゴールしか設定されていない。

ゴール設定の主語が本人じゃなく支援者になっている時点で、これは構造上必ず破綻する。そして破綻のツケは、自分じゃなく、後から来た誰かが払うことになる。

自分が気持ちよく燃やし続けて、後片付けの設計をしていない。次の人間は、なぜここまで火を大きくしたのか分からないまま、消火だけを押し付けられる。

優しさのつもりでやったことが、誰かの重荷になる。

それは、優しさじゃない。

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